素人レンズ教室-番外編 その3

エルジー・ライツの危機
 

 ジロー。いきなり暗がりに引き込まれたが、、。どうやら一時的にタイムスリップしてしまったようだ???)

「どこに行ったか?」
「確かに、こちらの方向だったはずなんだが。」

通りの複数の人影が、こんなことを言い合いながらまだうろうろしている。
ジローは瞑っていた目をうっすらと開けると、どうも人影は軍服を着ているようだ。

「ここはいつ、どこなんだろう?」

しばらくすると、どうも人影も去っていったようで、声もしなくなった。
するとあたりのシーンとした静けさが帰ってジローには不安に感じられた。
ジローの気持ちを察したのか、彼を抑えていた女性の力が緩み、やっと身体の自由が利くようになった。


「ごめんなさいね。突然引っ張り込まれてびっくりしたでしょう。でも彼らをやり過ごすためには仕方がなかったの。」

「・・・・・」
「ああ、まず先に名乗らなきゃね。私はエルジーよ。あなたは?」
「ぼ、ぼくはジローです。」

「ジロー君ね。でもどうみてもドイツ人じゃないわね。あなたは日本人?中国人?」
「日本人ですよ。ねえ、お姉さん、今は何年ですか?そしてここはどこ?」
「あら、変なことを訊くわね。この子、記憶喪失なのかしら。今は1943年よ。そしてここはドイツのヴェツラーという街。」
「ヴェツラーって、あのライカのヴェツラーですか?」

「そうよ。あなたはまだ子供なのにライカを知っているの?まだ日本にはそれほど輸出してなかったはずなのに変な子ね。」
1943年って、ええっっと、まだ戦争中だったかな?」
「戦争?何言っているのかしら、今は戦争の真っ最中よ。でもこの戦争は長くは続かないわ。あのナチ党の人たちのやり方が長続きするわけはないわね。」
「ナチ党って、ナチスですか。そうするとさっきの人影はナチスの人たち?」

「そうよ、ゲシュタポ。Geheime Staats Polizeiといって国家秘密警察。長官がゲーリングからヒムラーに変わってから、どんどん先鋭化して、今はドイツの国民はみんな恐れて何も言えないわ。」
「でも、お姉さんはなぜゲシュタポから隠れたんですか?」
「それは後で説明するわ。ところで、あなた記憶喪失だとしたら、今日帰るところわかっているの?」
「ううん。」

「仕方ないわね。じゃあうちに来なさい。巻き込んじゃって申し訳ないし、泊めてあげる。」

二人はそっと路地から出て、夜の石畳の道を歩き始める。

 
 ジローはエルジーに手を引かれながらも、周りをきょろきょろと見回しながら歩いていくと。

「あっ、ここって、オスカー・バルナックが写真を撮った広場だ。」
  と思わず声を上げてしまった。

「しーっ静かに。あなた、オスカーも知っているの?本当に不思議な子ね。オスカーは残念だけど何年か前に亡くなったわ。もともとあまり身体も強くなかったからね。」
「お姉さんはバルナックさんを知っているんですか?」

「知っているどころか、父の友達で、私もよく遊んでもらったわよ。」
「わあ、すごいですね。」

「さあ、着いたわ。ここよ。遠慮しないで入って。」


そこはかなり大きな邸宅だった。ふとジローが門標に目をやると、書かれていたのは。

 
「Ernst Leitz

「エルンスト・ライツ!」とジロー思わず叫んでしまった。

「それは父の名よ。だから私はエルジー・キューン・ライツ(Dr Elsie Kühn-Leitz 1903-85)というのが正式な名前。とにかくここに座って。いまココアでも入れてくるからね。ちょっと待ってて。」とエルジーは奥に入っていった。

「(僕、ライツの家に来ちゃった。はるかが聞いたらびっくりするだろうな。いま、はるかはどうしているんだろう。
先生たちと僕が戻れるようにちゃんと機械を直してくれているんだろうか?)」


「はい、お待たせしました。」ジローがそんな思いにふけっていると、いつの間にかエルジーがココアを運んできてくれていた。

「ねえ、お姉さん。お姉さんは決して悪い人には見えないんだけど、なんで秘密警察なんかに追われていたの?」

「(少し考えてから、、)じゃあ、話してあげる。今のドイツではね、良いことと悪いことの基準が昔と違ってきているの。

たとえば、今はユダヤの人たちを追い出すことが、この国では良いことで、仲良くしたり、匿ったりすることは犯罪になるのよ。」
 
 
「父の会社ではたくさんのユダヤの人たちが働いているわ。
 しかも、みんなとっても優秀。父の会社は軍隊の役にも立っているから、いままではあまり秘密警察にも手をだされなかったけど、
 もう時間の問題ね。
 この会社にいるユダヤの人たちもいつかは秘密警察に連れて行かれるわ。

 だから父は、危なくなったユダヤ人の社員に急いで技術を身につけさせ、その上でいろいろな名目で海外に派遣しているのよ。
 アメリカとかイギリスにね。ニューヨークやロンドンにいれば、さすがの秘密警察も手がだせないから。

 もちろん父の会社で出来る人数には限りはあるわ。
 でも、誰かがやらなくてはいけないの。だから、娘の私もその手伝いをしているのよ。」


「お姉さん、そんなに危ないことをやっているんだ。でも正しいことなんですよね。」
「そうよ。正しいこと。正しいと信じていることを行うことが人生だからね。ジロー君も覚えておいてね。」
「わかった。」

「そして、今日はちょっとへまをやっちゃったのよ。」
「へまって、失敗したんですか?」

「そう、この街に住むヘドィックという女性をスイスに逃がそうとしたんだけど、あと少しのところで彼女が連行されてしまったのよ。
 あの秘密警察のことだから、すぐに私のことを聞き出して、ここに来るわ。
 でもジロー君は心配しなくてよいからね。
 いま、父は仕事でフランクフルトに行っているから、しばらく帰ってこないわ。
 父には電報で知らせておくから、自分の家だと思ってゆっくりしてね。」


「ありがとう、エルジーお姉さん。お姉さんは結婚しているんですか?」
「してるわよ。子供も3人もね。でも今は田舎に行っているわ。
 まあ、とにかく今夜はもう休みましょう。寝室に連れて行ってあげる。」



さすがに、いろいろのことが一遍におきたジローは、疲労のせいか、ベッドに入れられるとあっという間に眠りに落ちてしまった。


あくる日は、とても平穏な一日だった。
ジローは自分がどうやってここに来たのかを話すことを忘れ、エルジーと過ごした。

エルジーはいつ秘密警察に連行されるのかわからないという状況にも関わらず、とても快活で多弁だった。

田舎道を散歩をしながら、特にナチ党が政権に関わる以前の落ち着いたドイツの時代のことをとても楽しそうにジローに話して聞かせた。

オスカー・バルナックはあまり笑わない静かな人だったようだが、エルジーに対しては、とても優しくて、開発中のライカ・カメラのこともよく話してくれたらしい。

エルジーはバルナックの話をするときはちょっと悲しそうだった。


 

 その次の朝、ジローは外の複数の車の音で目が覚めた。目を開けると、ベッドのそばにエルジーが立っていた。とても悲しそうな顔をしているようにジローには思えた。

 

「お呼びが来ちゃったわ。思ったより早かったわね。さすがはドイツの警察は優秀ね。」

「お姉さん、連れて行かれちゃうの?」
「いい、ジロー。父は大体のことは知っているわ。
 今日の午後に父が帰ってくるはずだから、会ったら私のことを伝えてね。」


「うん。」

「でも、父にはこう言って。『私のことを救うために、決して無理はしないように。』って。」
「だって、そんなことを言っていたら、お姉さんまで強制収容所に連れて行かれてしまうかもしれないよ。
 行っちゃだめだよ。」

「ありがとう。でもあなたのやる事は、いまのことを正確に父に伝えること。わかった?」

「うん。」

「昨日は楽しかったわ。ジローがいてくれたおかげで、警察のこともちょっとだけ忘れられた。
 でも私は大丈夫よ。だからさよならはしないわ。『じゃあ、またね。』」


ジローは泣きながら、、「またね。必ず帰ってきてよ。」

 
こう言って、エルジーは秘密警察とともに、自宅から出ていった。

 
エルジー・ライツについてよく知りたい方は下の本を買ってみてくださいね。
amazonでも簡単に手に入ります。英語ですが、絵本程度の内容ですので、辞書も要らないと思います。

  elsie's war(a story of courage in nazi germany)



本の表紙

エルジーと父親の
エルンスト・ライツ二世